父とコーヒーとフランス語とマナビ
- Aya Matsuyama
- 8月15日
- 読了時間: 4分
更新日:8月21日
今年90歳になる父との期限付きの暮らしは、日々が観察と発見の連続である。
若い頃、真面目に取り組まなかったというフランス語の学習に、父は今、毎日向き合っている。
「なかなか覚えられないんだよ」
と笑いながらも、その手は一日も欠かさずテキストをめくる。その姿を見ていると、「学ぶ」という行為そのものが、父の日常に確かなリズムと彩りを与えているのだと感じる。
そんな父が、ある日私にこう言った。
「いつも淹れてくれてるドリップコーヒー、淹え方を教えてくれないか。お前が忙しい時に、自分でできるようになりたいから」。
その気持ちが嬉しく、私は丁寧に手順を伝えた。
まず粉全体を湿らせて蒸らすこと。
次に中心から円を描くように湯を注ぐこと。
そして、サーバーに全てが落ちきる前にドリッパーを外すこと。

万全の準備を整え、父にバトンタッチする、という日々が始まった。もちろん、一度や二度ではうまくいかない。毎日、隣で見守り、声をかける。手順は記憶は、父の頭の中に情報の「かけら」としては確かにある。だが、そんな姿を見ていると、私の心に、ふと黒い感情がよぎる(笑)。
(私がやった方が、絶対に早い…)
その考えが頭をかすめた瞬間、はっとした。
そして、高校生の娘に数学の微分を教えていた時のことを、ふと思い出したのである。グラフ上の点における接線の傾きは、その瞬間の「変化率」を表すのだと、娘に説明したばかりであった。

子どもの学びは、まさに右肩上がりのグラフだ。新しい知識をぐんぐんと吸収し、それが次のステップへと確実に繋がっていく。接線の傾きは常に「正」。だから教える側も、その成長を実感し、喜びを感じることができる。
では、父のような高齢者はどうだろうか。
教えて「今」できても、その記憶が次の学びに繋がるとは限らない。それどころか、驚くほど短い時間の中で、その体験は儚く消えてしまうことさえある。この「結果に繋がらない」という現実を目の当たりにすると、教える側は「もう教えても憶えられないのだから」と、自分でやってしまうことを選びがちである。

しかし、それは学ぶ側から「できるかもしれない」という機会を確実に奪う行為に他ならない。やがて、他者への依存心は大きくなり、ついには「自分にはまだ何かできる」ということすら忘れてしまうのではないだろうか。
誰しも、忘れてはいないはずだ。何かを学び、昨日までできなかったことが「できた!」瞬間の、あの小さな、だけれども確かな喜びを。
初めて逆上がりができた日の高揚感、
初めて自分の名前を書き上げた時の誇らしさ、
初めて自転車に乗れた時の達成感。
その一つひとつの成功体験が、人生の折々で私たちを支えてきたはずだ。
「どうせすぐに忘れてしまうから」という考えは、あまりにも「結果」という物差しに偏った視点なのだと、私は気づいた。学びの本質は、必ずしも結果とだけ結びつくものではない。むしろ、学びの「過程」そのものにこそ、豊かな意味が隠されているのだ。
教える側と学ぶ側が、同じ時間と目的を共有し、関わり合う。そして訪れる「できた」という一瞬の喜びは、年齢に関係なく、その人の心を確かに照らす。
この気づきを胸に、先日、父の通院に付き添った。
そう遠くない未来に、父のもとを離れる身として、不安は尽きない。だからこそ、あえて少し距離を置いて見守ることにした。
受付窓口での手続き、検査室への移動、会計、そして駅までの道程。
一つひとつを、父は自らの足で進んでいく。以前の面影を無くし複雑化した新横浜の駅で、別の電車の改札の前で一瞬立ち止まる。でも、また歩き始めて目的の電車に乗れた。とりあえず一安心。
私のそんな不安をよそに、父はこう言って笑った。
「おい、俺、結構できるじゃないか!」
その自画自賛の言葉と、誇らしげな笑顔。それこそが、結果という物差しでは測れない、「過程」という時間の中に生まれる、何物にも代えがたい宝物。たとえすぐに忘れてしまうとしても、大切な人の心に灯ったその一瞬の輝きを、私は奪わないようにしたい。父の後ろ姿が、改めてそう強く教えてくれている。
最近、『マナビの紡ぎ人の心得』という電子書籍を出版したこともあり、人の成長と「マナビ」というテーマが、より切実なものとして私の中にあります。この文章が、読んでくださった方の心に何かを残すことができたなら幸いです。