「分かれる前のつながり」に立ち返る。――これからの時代を生きるための「あり方」
- 5 時間前
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最近の私の動き方において、強く意識している姿勢がある。それは、
自分自身の軸を深く見つめ、感じ、極めようとすること。
それと「全く同時」に、
周囲の動きに心を開き、思いを巡らせ、つながり続けること。
この2つの「あり方」を前にしたとき、私たちは往々にして
「ORかANDか」
という問いに囚われてしまう。
「自分の軸を保つに集中するか(A)、それとも周りに開くか(B)」
というAかBか、の「OR」という選択。 あるいは、
「自分の軸も大切にしながら、周りにも開いていこう」
というAもBも、の「AND」という選択。
しかし、一度この「ORかANDか」という問いと正対してみると、ある重要な構造が見えてくる。
どちらの選択肢をとるにしても、そこには最初から「A」と「B」という、独立した別々のものが存在している、ということだ。「OR」か「AND」かという議論は、そのあらかじめ分断された2つの要素に対する「扱い方の選択」に過ぎない。
たとえ、より豊かに思える「AND(AもBも)」という選択肢をとったとしても、結局のところ、それは別々にあるAとBを「両方同時に選択する」ということに留まる。
そうなると、次に生まれる問いは
「どうやったらその両方を成立させられるか」
という技術論になってしまう。そしてそこには、どこか時間的なシーケンス(順番)さえ見えてきそうになるのだ。
「まず自分の軸をしっかりと確立して、その次に、余裕ができたら周りに心を開く」というように。
「自利」と「利他」の本当の姿
この構造を考えていたら、今、日々学んでいる東洋哲学や日本のこころで扱っている、「自利」と「利他」のことが鮮やかに浮かび上がってきた。
世間一般では、自利(自分の利益)と利他(他者の利益)もまた、完全に切り離された「AとB」として扱われている。だからこそ、
「まず自分が満たされてから(自利)、人にやさしくしよう(利他)」
という順番の論理が正論になってしまうのだ。
しかし、ここで立ち止まってみたい。
本来「自利」と「利他」は、そのように時間差を伴うものではなく、
最初から同時に存在し得るもの、否、同時に存在しているもの
なのではないだろうか。
自分の軸を極限まで深めていくこと(自利)は、そのまま、世界全体の動きへと自分を開いていくこと(利他)に他ならない。そこに境界線はなく、ひとつの命の営みの表裏として同時に発生している。
日々の仕事の活動、あるいは様々な方との対話を通して分かってきたのは、
「自分のゴールを達成してはじめて、社会に貢献できる」
と考えている人が、結構多いという事実だ。それが良いか悪いかという議論をしたいわけではない。ただ、それはこれまでのパラダイムの構造ではないか、と思うのだ。
そこには常に「条件」が伴う。自分と他者をあらかじめ切り離した状態からスタートしているからだ。
分断の歴史と、現代の問い
かつての時代は、その分断の構造が機能していたのかもしれない。
歴史を振り返れば、17世紀にデカルトが「われ思うゆえにわれあり」と唱え、心身二元論へと繋がっていった。魂と肉体が分離され、精神と物質が切り離された。これこそが、当時の科学において決定的な役割を果たしたパラダイムシフトであった。
これによって、人間は世界を客観的な対象として「分断し、分析し、数値化し、見える化する」という術を手に入れた。このパラダイムシフトが、その後の科学を爆発的に発達させたことは歴史を見ればよく分かる。この「分断」という構造があったからこそ、人類は計り知れない恩恵と物質的な豊かさを手に入れることができた、ということは紛れもない事実だ。
しかし、現代を生きる私たちは今、ひとつの大きな問いに直面している。
世界がこれほどまでに目に見えるものに意識を置き、分断し、分析し、数値化し、見える化することができたのに、果たして人々は幸せだろうか、という問いだ。
物質的に満たされ、あらゆるものが個別化され、テクノロジーで常につながっているという日常がある一方で、私たちはどこか本質的な「つながり」を失い、孤独や閉塞感を抱えてはいないだろうか。
そもそも「分ける前の状態」、つながりを思い出す
そして、この状況を癒すためのアプローチにも、私たちはまた古いパラダイムを持ち込もうとしてしまうこともある。分断されたものを後から何とか「繋ぎ合わせよう」とする可逆プロセスだ。
心がバラバラの組織に1on1を義務付けたり、通常のビジネス活動の結果に社会貢献のラベルを貼ろうとしたり。表面的にはつながり直したかもしれないが、根本的にはなにも変わらない。
今、私が惹かれているのは、その手前にある問いだ。
バラバラになったものを後から繋ぎ合わせようとするのではない。
そもそも「分ける前の状態」を思い出す。そしてそこに、一体何が含まれていたのか、という問い。
科学と精神性は、後付けの融合ではなく、最初からひとつのものとして共存できるのではないか。
この「分ける前の状態」つまり「同時に存在する」という感覚は、日本のこころに古くからある、
「神は自分の中、そして自然の中に存在する」
という八百万(やおよろず)の考え方にも深くつながっている。
神と自然、世界と自分を切り離さない。この「すべては最初からつながっており、ひとつである」という意識があるからこそ、異なる信仰を拒絶せず受け入れる「神仏習合」という柔軟な知恵が自然に生まれたのだろう。このつながりを数学者岡潔さんは「なつかしさ」という言葉で表現されていたと記憶している。
日常のなかに息づく精神性
そしてこの精神性は、私たちのきわめて日常的な振る舞いの中にも、今なお息づいている。 自分の使う教室は自分で掃除することに誰も違和感を持たないこと。お祭り騒ぎの後、誰に言われなくても自発的に美しい後片付けができること。海外のメディアに、スポーツ観戦の後に客席を掃除して帰る日本人の姿がよく称賛されるが、当の本人たちは「なにか特別な善行をしている」という意識などおそらくない。
これらは決して、ルールに縛られた義務(利他)ではない。自分を取り巻く空間や世界を、あらかじめ「自分の一部」としてお腹の底で感じ、その分ける前のつながりを「思い出している」からこそ、ごく自然に、同時に湧き起こる営みなのだ。
自利あっての利他:形式知(これまでのパラダイム) 自彼の別なし(対立なし):暗黙知(これからのパラダイム)
理屈や言葉で説明できる「形式知」のレベルでは、どうしても自と他、科学と精神性を分けて考えてしまう。
しかし、あたま(ロジック)での理解を超えて、はら(身体感覚)へと降りていく。 その意識のシフトが起きたとき、「自分」と「世界」という別々に分かれていたはずのものが、お腹の底で静かに結びつき、反転する。その「暗黙知」のレベルにシフトしたとき、すべての対立は消える。
自分と世界はひとつ。自分は世界であり、世界は自分である。
これこそが「日本のこころ」の真髄であり、まさに「自利即利他」のあり方だと感じる。
自分を生きることが、そのまま
世界を生かすことになり、さらに
世界に生かされていることを知ることになる。
そこに奪い合いも、条件も、タイムラグも存在しない。
世界はシフトの真っ最中にある
これからどんなパラダイムで生きるかは、私たちの手に委ねられている。
過去の慣習や、デカルト以来続いてきた古い構造は、もちろん今もなお選択肢の一つであるが、それに縛られる必要はない。私たちはいつでも、今この瞬間から、新しい生き方や、新しい世界の捉え方を選択することができる。どうも、こうした柔軟な捉え方、考え方を、私たちの先人ははるか昔からやってきたようだ(近年の人類学や考古学が「万物の黎明」のような著作を通じて明かし始めているように)。
そして最近、このような新しいあり方に、言葉にならない興味をひかれ、共鳴する人に実によく会うようになってきた。何か大きな理論を掲げるわけではなく、ただ静かに「そうだよね」と頷き合えるような仲間たちだ。
「分かり合う」を目的にしないでいい対話。
違いはそのまま、
「そうなんですね」と、
一歩も引かず、
同時に一歩も押し付けない、
絶妙な距離感で、緩く受け止める。
あたま(ロジック)での分断を超えて、はら(身体感覚)でその「分かれる前のつながり」に立ち返ることができたら、それも次のパラダイムシフトへとつながるだろう。実際、このあたりを掴み始めている人が増えている。その確かな手応えを感じるたび、確信が深まる。
世界は今、確実にシフトの真っ最中にある。
このパラダイムのシフトについて、そしてそれが私たちの日常やこれからの社会の選択にどう現れてくるのかについては、また別の機会に深く書きたい。



