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責任って、誰に対してのものだろう――池から海へ、影響と自由のあいだで考える

「責任って何なんだろう」

そんな問いが、時々ふと心に浮かぶことがあります

答えを持っている人は多くありませんが、誰もが日々のどこかで、その重さに触れています


あいまいな水平線
あいまいな水平線

池の波と、海の波

子どもの頃に投げた小石の波紋は、すぐに消えていきました

けれど、大人になるにつれて、波は思いがけない場所まで届くようになります


SNSでのひとこと、職場での判断、買い物の選択ほんの小さな行動が、どこかの誰かに影響を与えています


影響を与えることは、いまの社会ではほとんど避けられません

だからこそ、影響に自覚的であることが、新しい「責任」の形になっているのかもしれません


「迷惑をかけない」社会で

日本では、「人に迷惑をかけないように」と教えられて育ちます

それは思いやりの言葉でもありますが、いつの間にか、「波を立てないことが正しい」とすり替わってしまうことがあります


SNSで発言すれば、誰かを傷つけるかもしれない

職場で意見を言えば、空気を乱すかもしれない

そうして、静かにやり過ごすことが“賢さ”とされる


けれど、「波を立てない」ことが本当に優しさなのでしょうか

波のない海は、どこかよどんで見えます

誰もが息をひそめる社会は、やがて息苦しくなっていきます


空気を読む、という責任

空気を読む力は、社会で生きるための一つのスキルです

でも、その空気が誰かの沈黙の上に成り立っているとしたら、ときには、空気を破る勇気が必要かもしれません


問いを置く

違和感を言葉にする

それだけで、場の流れが少し変わることがあります


空気を読むことと、空気をつくりかえること

その両方が、成熟した責任のあり方なのではないでしょうか


願いと責任の距離

NVC(非暴力コミュニケーション)という考え方では、「相手の願いを否定しない」ことが中心に据えられています


「相手の願いは、自分の願いと共存しないかもしれない。けれど、その願いそのものを否定しない」

これは、政治的な議論や組織内の対立、あるいは日常のすれ違いにも通じる態度です


責任とは、誰かを変えることではなく、他者の願いの存在を認め、共にあり方を探すこと

その小さな努力が、社会の分断を少しずつほぐしていくのだと思います


情報の波と、選択の責任

いま、私たちは1日に数千回の選択をしています

ニュースを選び、商品を選び、言葉を選ぶ

その多くが、画面の向こうの仕組みによって“誘導された選択”でもあります


アルゴリズムは、私たちの好みを映し出す鏡であると同時に、見たいものだけを見せる壁にもなります

その中で、どんな情報を受け取り、どんな声に耳を傾けるか

それもまた、社会への関与の仕方=責任の一部なのだと思います


波を立てるということ

波を立てることは、壊すことではなく、動かすことです

誰かの沈黙を揺らし、別の誰かの声を思い出させる


責任とは、「届くかもしれない」という自覚を持ちながら、それでも波を起こすことをやめないこと

その波がどこまで届くかは分からなくても、世界のかたちは、そうした無数の波でできています


そして、問いは続きます

どんな波を立てたいのか

どんな沈黙をやぶりたいのか

そして、どんな世界を静かに残したいのか


その問いを持ち続けること自体が、いまという時代を生きる責任のひとつなのかもしれません


――あなたにとって、「責任」とは、どんなかたちをしているでしょう

本記事は、ポッシブルワールド「夏の終わりのまなびらき」で行われたポッシブルワールドゲームホストのセカン!さんのセッションから着想を得て執筆したものです

セッションで直接語られた内容ではなく、そこから広がった問いや感覚を言葉として綴りました

ポッシブルワールドを運営する P-Labでは、学びや対話の場を通じて「可能性のある世界(Possible World)」を共に探求しています


どんな世界も、私たちの意識と行動次第

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