責任って、誰に対してのものだろう――池から海へ、影響と自由のあいだで考える
- P-Lab. Admin
- 10月31日
- 読了時間: 4分
「責任って何なんだろう」
そんな問いが、時々ふと心に浮かぶことがあります
答えを持っている人は多くありませんが、誰もが日々のどこかで、その重さに触れています

池の波と、海の波
子どもの頃に投げた小石の波紋は、すぐに消えていきました
けれど、大人になるにつれて、波は思いがけない場所まで届くようになります
SNSでのひとこと、職場での判断、買い物の選択ほんの小さな行動が、どこかの誰かに影響を与えています
影響を与えることは、いまの社会ではほとんど避けられません
だからこそ、影響に自覚的であることが、新しい「責任」の形になっているのかもしれません
「迷惑をかけない」社会で
日本では、「人に迷惑をかけないように」と教えられて育ちます
それは思いやりの言葉でもありますが、いつの間にか、「波を立てないことが正しい」とすり替わってしまうことがあります
SNSで発言すれば、誰かを傷つけるかもしれない
職場で意見を言えば、空気を乱すかもしれない
そうして、静かにやり過ごすことが“賢さ”とされる
けれど、「波を立てない」ことが本当に優しさなのでしょうか
波のない海は、どこかよどんで見えます
誰もが息をひそめる社会は、やがて息苦しくなっていきます
空気を読む、という責任
空気を読む力は、社会で生きるための一つのスキルです
でも、その空気が誰かの沈黙の上に成り立っているとしたら、ときには、空気を破る勇気が必要かもしれません
問いを置く
違和感を言葉にする
それだけで、場の流れが少し変わることがあります
空気を読むことと、空気をつくりかえること
その両方が、成熟した責任のあり方なのではないでしょうか
願いと責任の距離
NVC(非暴力コミュニケーション)という考え方では、「相手の願いを否定しない」ことが中心に据えられています
「相手の願いは、自分の願いと共存しないかもしれない。けれど、その願いそのものを否定しない」
これは、政治的な議論や組織内の対立、あるいは日常のすれ違いにも通じる態度です
責任とは、誰かを変えることではなく、他者の願いの存在を認め、共にあり方を探すこと
その小さな努力が、社会の分断を少しずつほぐしていくのだと思います
情報の波と、選択の責任
いま、私たちは1日に数千回の選択をしています
ニュースを選び、商品を選び、言葉を選ぶ
その多くが、画面の向こうの仕組みによって“誘導された選択”でもあります
アルゴリズムは、私たちの好みを映し出す鏡であると同時に、見たいものだけを見せる壁にもなります
その中で、どんな情報を受け取り、どんな声に耳を傾けるか
それもまた、社会への関与の仕方=責任の一部なのだと思います
波を立てるということ
波を立てることは、壊すことではなく、動かすことです
誰かの沈黙を揺らし、別の誰かの声を思い出させる
責任とは、「届くかもしれない」という自覚を持ちながら、それでも波を起こすことをやめないこと
その波がどこまで届くかは分からなくても、世界のかたちは、そうした無数の波でできています
そして、問いは続きます
どんな波を立てたいのか
どんな沈黙をやぶりたいのか
そして、どんな世界を静かに残したいのか
その問いを持ち続けること自体が、いまという時代を生きる責任のひとつなのかもしれません
――あなたにとって、「責任」とは、どんなかたちをしているでしょう
本記事は、ポッシブルワールド「夏の終わりのまなびらき」で行われたポッシブルワールドゲームホストのセカン!さんのセッションから着想を得て執筆したものです
セッションで直接語られた内容ではなく、そこから広がった問いや感覚を言葉として綴りました
ポッシブルワールドを運営する P-Labでは、学びや対話の場を通じて「可能性のある世界(Possible World)」を共に探求しています
どんな世界も、私たちの意識と行動次第


